『ゲド戦記』

実は、観るのも、感想を書くのも二回目。


ゲド戦記 [DVD]

ゲド戦記 [DVD]


ちなみに、映画館で観たときの感想はこちら。こっちの方で、この映画について言いたいことは全部書いています。
http://d.hatena.ne.jp/asaikeniti/20060729#1154168336



一般的な評価で言えば、本当にダメダメだった『ゲド戦記』なのだけれど、僕が思うに「ビジュアルの、僕らが観たいジブリアニメ」の部分が突出していて、その反面「ストーリーの、これじゃないジブリアニメ」な感じがどうしてもあるのだと思う。ひたすら思わせぶりなセリフ、シーン、展開が続くのだけれど、結局のところ世界の均衡とかどうでもよくて、人攫いの親玉とアレンの盛り上がらない対決に落ち着いてしまう。宮崎駿だったら、こんなに盛り上げない映画は作らなかったはずだけに残念すぎる。


ゲド戦記』の一番良いところは、やっぱりビジュアルにある。このビジュアルを、新人監督の宮崎吾郎がひとりで作れたとは思えないので、宮崎駿が書きためたスケッチなり、スタッフの助力があったのではと思う。『ゲド戦記』のビジュアルは、ナウシカラピュタ以来、ようやくジブリが出してきた本格ファンタジーとして、本当によくできている。ストーリーなんて、あってないようなものなんだから、ゲドが素晴らしいビジュアルの世界を旅するロードムービー的な内容でいいじゃないかと。


宮崎吾郎監督作品として、やっぱり父親宮崎駿との関係を『ゲド戦記』でも観てしまう。アレンにとって父親的なものが、刺し殺した父王とゲドという二人いるのは、「家庭人の宮崎駿」と「ジブリ宮崎駿」というふうに人格を二つに分けたから、そしてクモは鈴木プロデューサー……というような観かたはいくらでもできる。まあ、でも、そんな意図も余裕なかっただろうなぁと。初監督作品として、アニメ映画の経験もなかったのに、ここまで作り上げることができたのは偉いと思う。


映画として、演出がとにかくもっさりしているということと、テルーの足が遅いということは、テンポや疾走感を重視するジブリにあるまじき欠点だ。。ジブリの映画なのに、テルーやアレンの駆け足が遅いというのは、『ゲド戦記』全体の停滞を代表している。あと、この映画は『シュナの旅』に着想を得ているのに、『ゲド戦記』の原作を読んでいないとハードルが高いというのも、ちょっと問題だと思う。ジブリは原作つきの映画であっても、原作を読まなくても良いように、大胆なストーリーを作ってきたのに。


改めて鑑賞して思ったのは、「テルーとクモが対立する因縁がなく、テルーが竜になる必然性がない」ということ、「クモは世界の均衡が崩れたことの原因ではない」ということと、「世界の均衡が崩れたことと、アレンの父王殺しは関係がない」の三点。主人公はアレンなのに、この映画の対立はゲドとクモの二人にあって、しかもアレンを活躍させるためにゲドが活躍できない、という明確な欠点がある。ラストの戦いなんか、ゲドが頑張ればクモなんて瞬殺じゃないの? と思ってしまうし、なんで見守り役に徹しているのだろう。


僕が思うに、『ゲド戦記』は鈴木プロデューサーの豪腕で、三部作ということにすれば良かったと思う。そうすれば、このストーリーで訳の分からないところも、2部3部で明らかになる、みたいな逃げが打てたのに。

『フィールド・オブ・ドリームス』

スカパーで鑑賞。


フィールド・オブ・ドリームス [DVD]

フィールド・オブ・ドリームス [DVD]



【ストーリー】
「それを作れば、彼は来る」
トウモロコシ農家の男が、謎の声に導かれて野球場を作ると、伝説の名選手たちが現れる。


【見所】
野球のシーンを観るだけで、ボロボロと涙が溢れる。


【感想】
個人的に最強の泣き映画。そんなに野球自体に思い入れがないのに、『フィールド・オブ・ドリームス』は観ているだけで号泣してしまう。


多分、泣きポイントがいちいちヒットするのだろうなぁ。トウモロコシ畑に野球場を作るというビジュアルが素晴らしすぎるし、そこから死んだはずの名選手たちが全盛期の姿で現れるというのも泣ける。また、僕は贖罪の物語にどうにも弱くて、ラストの父親とのキャッチボールも泣けるし、野球場を目指して数え切れないほどの自動車がやってくるラストも泣ける。僕にとっては泣ける要素しかない映画だ。


また、野球場を眺めるケビン・コスナーが良かった。ケビン・コスナーって抑揚の効いた演技のときが一番魅力的だと思う。最近の作品で言えば『マン・オブ・スチール』の父親役でもそうだったけれども、たたずむ姿に品がある。動くと途端に演技が軽くなってしまうのだけれど、『フィールド・オブ・ドリームス』の場合は、野球場を観るシーンが魅力のほとんどなのが功を奏している。


作家テレンス・マン(原作では、サリンジャー)がアメリカと野球について語る言葉、「アメリカは壊しては新しく建てる国だが、野球だけは古くから持ちこたえて、人々を善に導く力がある」という言葉に、アメリカ人が野球に抱く憧憬が伝わってくるようだった。ストーリーは、とんとん拍子にご都合主義の展開が続くけれども、テレンス・マンや主人公の娘の言葉があるからこそ、物語がすべて必然であるという納得が観客に与えられる。もちろん、日本人には、そういう憧憬がアメリカ人に比べて薄いので、納得できない人も当然いるだろうけれど。


でも、根本的なところで、子供の頃の夢の実現や、失われた贖罪の機会の復活は、普遍的なもので、そこに僕たちは感動するのだと思う。「ここは天国か?」とシューレース・ジョーや主人公の父親が訊いて、「アイオワだ」と主人公が答えるやりとりに、夢は現実にあるものだということを痛感させられた。

『荒木飛呂彦論』

はやくも、今年ワースト候補が登場。



荒木飛呂彦論』という名前に釣られて購入。副題に「アート・マンガ入門」なんて書かれていれば、これは買わざるをえないでしょう! というわけで。でも、実際は買うまでに時間がかかりました。本屋で本書を見つけたときは、「おっ!」と思ったものの、ぱらぱらと読んでみると、とても「入門」な内容に思えなかったので。でも、やはりファンなので購入した。


中身は、漫画家荒木飛呂彦を論じるというよりも、『ジョジョの奇妙な冒険』について語るというスタンス。著者は映画研究を専門としている人のようで、ユリイカ荒木飛呂彦特集にも本書のような視点での文章を載せている。映画研究者の立場から荒木飛呂彦の作品について語るという内容。でも、映画なら作品から論を立てるというのは当たり前なのかもしれないが、しかし、それなら本書も『ジョジョの奇妙な冒険論』で良かったのでは? というように、この本には荒木飛呂彦を論じた部分がない。


それはともかくとして、荒木飛呂彦ジョジョの奇妙な冒険のファンとして言わせていただければ、この本は買う価値のない地雷だ。本書を書店で見かけて、興味を持って、パラパラと捲ってみれば気付くと思うけれども、この本の著者の書いている文章は、一読して「なに言ってるの?」と容易に理解できないものになっている。さすが、「マンガ・アート入門」と帯に書かれてあるくらいだから、読み手の素養も試されているのかと思いきや、実際、ここに書かれていることときたら、著者の「そう読める」という論(というのもどうかと思うが)が詰め込まれただけの、ただの私見にすぎないものだったりする。


僕は、この本に書かれているところの、「『ジョジョの奇妙な冒険』は世界的水準の傑作漫画」という評自体に異を唱えるつもりはないし、実際にファンとしてそう思っている。でも、「論」と言うからには、ロジックによって『ジョジョ』=「傑作漫画」という証明をしなければならないはずだ。そこが、どうしてかこの本には欠けている。『ジョジョの奇妙な冒険』についての、基本的なストーリーの事実関係も怪しければ、荒木飛呂彦ジョジョについて語っていることも引用がないし、勝手な解釈を長々読まされるという苦行に付き合わされるはめになる。ジョジョほどに人気のある漫画だと、ある程度の共通した読まれかたがあると思うのだが、この本では、それを無視して特殊な読み方に終始しているので、「この人は本当にジョジョを読んだのか?」と疑問に思う部分が少なくない。


また、著者の主観で語られても、納得のいかないものは納得がいかないし、納得するには文章が訳分からないし、論を補強する先行研究の紹介などもあまりされないし、これが『ジョジョの奇妙な冒険』についての評論だと言われても、ファンであればあるほど反発するのは必至だ。例えば、88Pに「DIO戦の前には暴力描写がほとんどなくなる」なんて書いているけれども、ヴァニラ・アイス戦を完全に無視しているし、73Pには「ジョジョにおける殺害描写は1部と7部を除けば、金銭欲や悪欲や政治的/宗教的理念とほぼ無縁」とあるが、いやいや、欲にかられた敵対キャラは沢山出てくる。


個人的には、著者の中心的な主張になっている「水の描写=波紋」論や、「二元論を超えた物語がある」論については、明確にそうではないと言いたいところがある。


前者については、こじつけもいいところで、主に第二章においてそれが語られるのだけれども、説得力が全くない。これなら、「人の描写=人間賛歌」論でもいいじゃないかと思うほどだ。各部に継承される隠された主題のようなものが、本当にあるのかについては、僕には評論のいろはがないので判断しかねるものがあるが、本書を読む限りでは、著者の「こう読める」という解釈に従って『ジョジョの奇妙な冒険』をパッチワーク的に引っ張りあげているようにしか思えなかった。代表的なところで言えば、「ホワイト・スネイクの瞳」と「空条丈太郎の手のひらマークの帽子飾り」が関連あるように書いているが、ホワイト・スネイクの瞳が手の形に観える絵というのは、著者が言うほど多くない(というか図版の絵だけ)。


「二元論を超えた物語がある」という論については、代表的なところでは3部終盤のポルナレフのモノローグ(ジョースターが「白」でDIOは「黒」)で明確に二元論が示されているし、荒木飛呂彦自身、インタビューで少年ジャンプで連載する以上、二元論は崩せなかったと語っている。そこを無視しての論はありえないはず。善悪二元論を、明確にそのように描かなくなったのは7部に入ってからで、それはヴァレンタイン大統領が最後「説得」という手段を使ったところに見い出せる。それまでの悪役(特にラスボス級のキャラ)は、「信頼のおける仲間」はいるにはいるが、基本的には自分一人が頂点(頂点の位置づけは個々で異なるものの)に立てば他はどうでもいいという孤高の存在だ。5部のディアボロや、2部のカーズ、3部のDIOにおいてもエンヤ婆をボロ雑巾のように見捨てている。さらに、DIOには肉の芽という洗脳手段があるし。


というわけで、「論」としては言葉が乱暴にして、支離滅裂、基本的なストーリーの事実誤認(4部を語るところで、億泰を「最初の敵」と書いてあったりする)もあって、到底納得するレベルには及ばない。もしくは、映画評論としての文脈によって、納得できる方法があるのかもしれないが、そもそも作者がどんな漫画評論の立場で『ジョジョの奇妙な冒険』を語っているのかも解らないので、本書を読んで『ジョジョの奇妙な冒険』についての理解が深まるとも、本書の内容に知的好奇心を刺激されることもないだろう。ただ、絵画表現としてジョジョを語る部分に入ると、あまり引っ掛かる部分はなくなる(私の絵画的素養がないという問題もあって)。やはり荒木飛呂彦論といってもジョジョ3部以降が主眼になっていて、特に2部がほぼ無視されているのはどうかと思った。世評的に名高い2部を語らなくて、ジョジョを論じることができるのだろうか? マニエリズム的表現に関して言えば、2部の柱の男を超えるものはないはずなのに。


これについては、おそらく1部2部が『北斗の拳』的表現の影響があるから、語りづらいということがあったのだと思う。また、著者は映画研究家であるのに、ジョジョのエピソードにおける映画(やスティーブン・キング)の影響について、なぜか語っていないのも残念だった。そういうオマージュやパロディ的なものは、週間連載をする上で仕方のないものだっただろうし、それを含めてもなお、『ジョジョの奇妙な冒険』という漫画は傑作であるはずで、革新性ばかり注目して、革新的でないものに目を背けては、ものの本質が見えてこないと思う。


また、やはり漫画家荒木飛呂彦に言及なくして、『ジョジョの奇妙な冒険』を語ることはありえないと思った。さらに言えば、『ジョジョの奇妙な冒険』が少年ジャンプでどのような読まれかたをして、どのように世評を獲得していったのかについても言及がない。それなくして、「傑作漫画」の証明なんてできないと思う。ジョジョは漫画として優れてはいるが、他にも優れた漫画は山のようにあって、そのなかで、なぜジョジョだけが美術的にも高い評価を得られたのか。そこは、漫画だけ読んでいては出てこない論だが、そこにこそ、本質があるのでは?


本書の価値は、まがりなりにも漫画研究本として、こういうものが出てきたという1点だけにあると思う。これを足がかり(サンドバッグ)にして、様々な研究評論が増えればいいよねぇ……


【おまけ】
ちなみに、この文章の読みづらさは、おそらくは口述筆記の拙さが原因でないかと思う。ところどころ、喋りの文章っぽい取り留めのなさがあるので、口述筆記をして校正するところが(どこかで)上手く行かずに、そのまま出版されたのかも。だからといって、フォローにはならないけれどね!


あと、こんな本が出たおかげで、漫画評論や漫画研究の地位が墜ちるのが心配だったりする。真面目な研究者は、コツコツとやっているんだけれどね。著者の人もユリイカ荒木飛呂彦特集に寄稿するくらいの人だから、そんなに変ではないと思うのだが、どうしてこんなにトンチンカンになってしまったのだろうね??


【おまけ2】
こちらは、文化庁メディア芸術祭の漫画部門大賞に『ジョジョリオン』が選ばれての、僕の『ジョジョの奇妙な冒険』についての雑感になります。
http://d.hatena.ne.jp/asaikeniti/20131208#1386502822

『山賊ダイアリー』

山賊ダイアリー(1) (イブニングKC)

山賊ダイアリー(1) (イブニングKC)

「狩人」という人類が誕生してからある職業を、岡山で行っている著者が描いている漫画。狩猟というと、鉄砲を持って猪や野鳥を狩るというイメージだけれど、日本では当然のことながら銃刀法という厳しい法律があって、狩猟にも厳格なルールが存在する。そういう知られざる世界を覗き込める楽しさが、この漫画の魅力だと思う。


狩猟の免許には、ライフルやショットガンを使うものと、罠を使うものの二種類の免許があるということや、狩猟用の銃は空気銃を使う(しかも、空気銃でも結構な威力)だということなど、はじめて知るようなことが山ほど出てくる。狩猟できる動物も制限があることや、農家の人の依頼でカラスを駆逐する仕事が多かったり、猪が一頭100万円もすることなど面白い話が続く。でも、こういう「面白い」と感じる部分は、裏返せば、僕たちがいかに都会で生活していて、自然と隔絶しているかの裏返しだと思う。


1巻の冒頭に、岡山でハンターをしたいということを著者が恋人の女性に話すと、まったく理解してもらえなかったというエピソードが出てくる。「ほとんどの女性は狩りを理解してくれない」と著者は語っているけれども、それは「狩猟」そのものに対する理解というよりも、現代の日本で「狩猟」という「暴力」を行う男に対する忌避感じゃないかと思う。


漫画を読めば、農村部でハンターが担う役割というのは、決して軽いものではないということが分かるが、そういう必要性は都会では見えづらいし、そうなると「なぜわざわざそんなことを?」という気持ちに繋がるのも理解できるというものだ。それに、ハンターの仕事がニュースで好意的に報じられることは猪や熊の駆除以外にあまりないし、それも都会では実感しにくいし、誤って山菜採りのおばあちゃんを撃ったとか、銃で殺人を犯したとかいう犯罪報道ばかりだと、怖がられるのも仕方ない。


最近のニュースでも、猟友会に入ろうという若者が少なくなっているというものがあって、理解不足は女性でも男性でも同じだと思う。でも、こういう漫画が評判になることで、社会を構成する仕事としてのハンターが周知されれば、状況は変わるのかもしれない。なにより、狩猟は太古からある職業で、これからも人間が地球にいるかぎりは必要でありつづける職業なのだから。

TOEICテストのこと

というわけで、年始年末はずーっと英語の勉強をしていて、今日はその成果を測るためのTOEICの試験日だった。ちなみに、僕がTOEICのテストを受けたのは、これが3回目。最初の一回は、15年前に大学生のときに受けて、そのときは400点以下だったように記憶している。訳分からなくて途中で寝たような。


で、2回目は今年の10月に試験を受けた。実際、英語くらいはできて当然という世の中の流れに乗りたかったからで、春あたりから英単語とリスニングを中心に知識積み重ねていった。当然、中だるみや中断ということもあったけれど、ちょっと頑張って勉強したかいあって、500点くらいだった。でも、そのときの試験は、15年ぶりのTOEIC試験で、試験自体の対策はぜんぜんしなかったことや、リスニング中に咳き込む人がいて、集中力が途切れたことなど、不本意なことが結構あった。


試験前に観るパンフレットでは「暴力行為」が禁止されていて、そんな奴いるのかよ(笑)と思ったのだけれど、試験中に咳き込む人に対しては本気で殺意を覚えてしまう。でも、試験はそういうことは想定した上で臨むべきなのだと、前回の試験では反省した。2時間も集中力を途切れさせずに問題を解いていくというのは、結構な労力なので、それに身体を馴染ませるだけで、かなりの点数アップが見込める。


今日行った3回目の試験は、TOEIC用にある程度対策を立てて臨んだ試験なので、二回目の点数よりも当然、高得点であるという手応えはあったのだけれど、それでも目標の700点にはまだまだな実力不足を痛感した。次回の3月のテストでは達成できると思うものの、今回のテストは、正直言って点数が良いとも悪いとも言えない。でも、英語力そのものは、着実についているとは思うんだけれどね。


TOEICの勉強法としては、まず「英単語」は必須。TOEICはビジネスや英語圏での生活に根差した問題が出てくるので、会社関係の英単語やニュースに出てくるような英単語を知らないと、まず太刀打ちできない。目標は頻出英単語3000語をリーディングもリスニングも丸暗記すること。特に、その言葉が形容詞なのか名詞なのかまで把握できれば、単文穴埋め問題などでもかなり高得点が期待できる。でも、これがそもそも血反吐を吐くような苦行だ。


僕は、この英単語を覚えるのが本当に苦手で、これまで100回くらい覚えようとした英単語が山ほどある。思うに、名詞や形容詞は覚えやすいけれども、動詞は覚えづらい傾向があって、それはおそらく英単語のみ記憶しようとしてもダメかもしれない。例文を丸ごと覚えるような方法のほうが、大変かもしれないけれども、確実な方法のような気がしてきた。後は、長文読解のリーディングを鍛えることで、英単語が自然に把握できるようにするのも有効だと思う。リーディングは速読して内容を把握しないといけないけれど、受験英語的な対策では高得点は望めないし。


リスニングについては、これはもう英語を聴きまくる、喋りまくるしか方法がない。いろいろと調べてみると、どこかの段階で劇的に聞き取れるようになるらしいのだけれど、今のところはそのレベルにない。鍵となるフレーズが聞き取れるくらい。それでも2回目のテストと比べると段違いの成長ぶりだけれど、まだまだ道半ばだと思った。


ちなみに、僕が勉強に使ったテキストは……

TOEICテスト新公式問題集〈Vol.5〉

TOEICテスト新公式問題集〈Vol.5〉

まずは、これ。というか、たくさんの人が語っているように、公式問題集に勝るテキストなしだと思う。まず、リスニングが本番と同じ人が喋っているというのが大きい。あと、問題の傾向も把握できる。これを死ぬほどやって、900点を超える人が、別の専門的なものに手を伸ばすのがセオリーか。英単語は、短文を読み上げるので、これを使った。DUOを勧める人が多いけれども、近くの本屋で売ってないので。こちらも公式で、問題も実際に出たものから選ばれている。この本を一冊丸々覚えて、ようやくスタートラインかもしれない。


TOEICのテストは、受験英語的な対策をどんどん封じる方向に向かっているようで、問題自体も、英文の意味が把握できないと正答できないものが結構あるように感じられた。で、これからの2ヶ月は、次のテストに向けてのモチベーションの管理が一番重要だと思う。なにごとも積み重ねに勝る攻略法なし、というわけで。

『ステルス』

スカパーで鑑賞。



【ストーリー】
最新鋭ステルス機に乗ったエースパイロット3人と、無人機(エディ)が極秘作戦を遂行していくが、エディが落雷を受けて自我に目覚め、それによって数々のトラブルに見舞われる。


【見所】
ミャンマーウズベキスタン、ロシア……
そして北朝鮮アメリカ軍のステルス戦闘機が殴り込み!
とんでもないバカ映画なんだけれど、映像はスゴい。
アラスカで格納庫からのミサイル発射で扉ごと敵をぶっ飛ばすシーンなど、どうやって撮影したんだろ?


【感想】
これ、現実にやったら第三次世界大戦だよね。


かつて、『チームアメリカ・ワールド・ポリス』って映画があったけれども、あれの精神を受け継ぎながら、ストーリーそのものはアメリカ軍の暴走をなんとなく受け入れさせる作りになっているという怪作だった。こういう映画を観ると、「話の無茶苦茶さをどうやって周囲に納得させたんだろう?」と疑問になってくるし、この映画の場合、アメリカ海軍がかなり協力しているんだよね。これ、アメリカ海軍の株を落とす話のようにしか見えないけれども。


とにかく、アメリカ海軍の極秘ステルス戦闘機チームが、他国への軍事行動をしまくるという内容に驚いてしまう。2005年の映画なので、2003年からはじまったイラク戦争の余波を受けて作られたことは容易に想像できる。多分、作り手たちは、「ステルス戦闘機で他国を爆撃する」という大バカな基本プロットを納得させるために、「だって、ほら、イラク戦争も似たようなもんでしょ?」みたいな説得をしたんだろうなぁ。


監督は、『トリプルX』や『ワイルド・スピード』の監督であるロブ・コーエン。全体的に、「違法行為すれすれのところで、筋と正義を守るヒーロー」を描くことに長けているというイメージがある。でも、今作の場合、違法行為が国際法なんだよね。しかも、違法行為すれすれどころか、完全に国際法的にNGなことをしているし。さすがに対マフィアや、対ギャングであれば、違法行為すれすれでも「仕方ないか」と許容できても、対北朝鮮や対ロシアはあかんだろうと。


でも、「細かいことはいいんだよ!」というアメリカ映画伝統の「文脈」で観ると、主人公のベンと人工知能のエディの、変則的なバディものとして観ることはできる。そこも主眼ではないと思うが。この映画が本当に描きたいのは、「打倒、マイケル・ベイ」的な、際限のない破壊のビジュアルにある。「爆発はすべてを忘れさせ、すべてを消去し、すべてを丸くおさめる」というメソッドが、ハリウッド映画にはあるような気がする。しかも、そのメソッドが超洗練されているので、ついつい騙されてしまうのも始末に悪い。


映像がいちいちダイナミックで、鑑賞していると思考力が麻痺してくるんだよね。とにかく爆発、とにかくミサイル、とにかく虐殺という感じで。核爆発的な描写がなんの必然性もなく出てくるのには参った。「ここ、でかい爆発ほしいっすね。そこをステルス戦闘機がグワァって飛ぶイメージで」「いいねぇ。核爆発いっとく?」みたいな軽さがたまらん。この物語の最終的な敵は北朝鮮になるのだけれど、38度線をステルス戦闘機で侵入して、ミサイルでなにもかもぶっ飛ばしたら、めでたしめでたしでは済まないはず。それが、美しい爆発炎上の映像で、なんとなく花火を見物しているような気持ちになってくるのよね。


この映画は基本的に主人公が地味で、それ以外がキャラ立ちしているという種類の映画。北朝鮮に不時着した女性パイロットを追い詰める北朝鮮の軍人とか、空母エイブラハム・リンカーンの艦長とか、そんなに出演時間はないけれども強烈な印象を残す。北朝鮮の軍人の、ジェシカ・ビールを崖越しに狙撃するシーンとかスゴい良かった。その後、肩を撃たれても普通に逃げ回るジェシカ・ビールの不死身ぶりには驚くけれど。


主要キャラは、ジェシカ・ビールジェイミー・フォックスは安定していたと思う。この後、大スターになるだけあって、輝くものがあるなぁと。主役のジョシュ・ルーカスは、フィルモグラフィを観ると、いろいろな映画に出ているけれども、今もパっとしていない。元々、バカ映画向きの俳優ではないのかも。やることに対して、顔がバカっぽくないのは致命的だった。悪くはないと思うんだけれど、このキャラと、人工知能(こいつも紋切り型なんだよね)の掛け合いも、あまり面白くないし。


全体的に大味な映画で、カミングス大佐と政治家の話とか、消化しきれていない部分は多々あるものの、そこまで求めるような映画でないことは明らか。ここまでのことをやって、北朝鮮領内に証拠のステルス戦闘機の残骸を残してしまって、しかもラストで人工知能が実は生きているという描写まであって、これからどうなるんだ、という不安感は拭えない。ただ、アメリカ人って、結果がどうなってもテイク・イット・イージーな感覚なんだろうなぁと、そういうメンタル部分が透けて見えた。

『ノウイング』

スカパーで鑑賞。


ノウイング プレミアム・エディション [DVD]

ノウイング プレミアム・エディション [DVD]


【ストーリー】
50年前のタイムカプセルから、未来の大惨事を予言する紙が出てきて、宇宙物理学者の主人公が巻き込まれる。


【見所】
飛行機事故、地下鉄事故、人類滅亡!
やりすぎディザスター描写。


【感想】
2009年に作られたディザスタームービー。人類滅亡や地球滅亡映画というのは、実際には「ない」ものだけに、映画というイリュージョンで作りたいと思うのかもしれない。巨大な予算が投入されて、革新的な視覚効果が生み出されるという利点もあるし、マーケティング的にも「人類滅亡」というテーマはキリスト教的に身近なものだったりする。そうでなくても、人類滅亡の予言や予測があると、それを利用してこういう映画が作られるのは、例えば、大きな事件があるとそれを元にした映画が作られたりするのと一緒だ。


50年前に少女が書いた数列が、タイムカプセルによって物理学者の手に渡り、そこに書かれた大災害の暗号に物理学者が振り回される……という話。独特なのが、この映画が単なる人類滅亡の大災害を描いているのではなく、キリスト教的な終末観と救済観をもとに描かれているということ。ハリウッド映画はどんな作品であれ、キリスト教的な価値観をもとに作られているのだけれど、本作の場合は露骨の度合いが過ぎると思った。丁度、アメリカのキリスト教福音派や、ティーパーティーの活動が盛り上がっていたので、そういう客層が詰めかけて、アメリカ本国では大ヒットしたという。


監督は『ダークシティ』のアレックス・プロヤス。「人知を超えた存在に振り回される」タイプの映画を得意としている人で、今作はその集大成と言える作品かもしれない。「人類が滅亡するかもしれない」という(荒唐無稽な)アイデアを、主人公が本当だと信じ、それに振り回されながらも行動するというストーリーは、ちょっとバランスが悪いと途端に鑑賞に堪えられないものになるわけで、それを堪えられるものにした手腕はさすがだ。ちなみに本作に出てきた天使っぽい人は、なにげに『ダークシティ』の宇宙人に似ているような気がした。もしかしたら、監督的には『ダークシティ』のビギニング的な位置付けなのかも。


物語的に感心したのは、「人類滅亡」のアイデアを主人公は序盤で確信するのだけれど、なかなか周囲が理解しないというところ。ニコラス・ケイジが深刻な顔で近付いても、普通は警戒してしまうよね。些細な偶然の積み重ねで、主人公を確信に至らせる方法も上手い。ちょっとした会話や、零したグラスの跡や、もちろん主人公が宇宙物理学者で、宇宙物理学には決定論とランダム論二つの大きな潮流がある(本当にあるかは不明だけれど)といった伏線や演出によって、荒唐無稽さのハードルを超えていくのは上手いと思った。もちろん、「く、苦しい……」と観ていて思う部分もあった。


苦しいなぁと思った一番の理由は、主役がニコラス・ケイジだったからかも。ニコラス・ケイジが終始困り顔をしているので、物語に緩急を感じづらかった。序盤は、(妻が死んだという設定があったにしても)ある程度明るい顔を見せても良かったと思う。


映画的には『未知との遭遇』の現代版と言える。「子供がさらわれたままで、大人が宇宙に行かない未知との遭遇」という説明が一番しっくりくるかも。映画として比較すると、ディザスター度はCG全盛である『ノウイング』の圧勝なんだけれども、「なにか不思議なことが起きている」という描写や演出は、『未知との遭遇』ってとんでもない映画だったなぁと。砂漠に捨てられた船とか、インドの変な宗教とか、世界的な科学者による会議とか、ロマンに溢れる描写が続くし。『ノウイング』の場合は、映像的にはどんなものでも表現できてしまう時代だからこそ、作り手の才能の差が如実に出てしまう世の中になったなぁと感じた。もちろん、アレックス・プロヤスは力のある監督だが。


見所のディザスター描写は、さすがに圧巻だった。序盤の飛行機事故の阿鼻叫喚な描写はすごかった。飛行機の機体が真っ二つになるほどの事故なのに、意外に人が這い出てきているとか、炎の中に立つニコラス・ケイジとか、おかしな部分があったけれども、大惨事な映像という意味では迫力があった。さらに、おそらく福知山の脱線事故をモデルにした地下鉄事故など、爆発や横転した電車に人々が巻き込まれる様がそのまま描かれているのにはビックリした。


アメリカ国内向けの内容なので、ラストのオチにはついていけないところもあるとは思うものの、まあまあ満足度の高い映画だった。新世界のアダムとイブになっても、あの二人だと生きるのが辛そうという心配はあるけれど。