『やさしさをまとった殲滅の時代』

堀井憲一郎さんの現代評論。



僕は、今の時代は「変わり目」だとは思うものの、そこまで激しい「変わり目」であるかというと、それはどうかな〜と首を傾げてしまう。日本の歴史を観ても、明治維新や太平洋戦争の敗戦といった、人の生き方を180℃も変えてしまうような「変わり目」はたくさんあったし、それと比較しても、今はもっと緩やかで柔軟性に富んだものになっている。たぶん、今の世の中が高度に成熟していることが、知らず知らずのうちにセーフティネットになっていて、その恩恵を受けているのだ。


ゼロ年代を俯瞰して、インターネットやサブカルチャーの興廃から、日本社会の構造の変化について考察している。「世間」という上から下まで貫いていた共同体(価値観)が、高度経済成長の終焉とインターネットをはじめとした情報化によって崩壊して、同じ感覚を共有できる人々だけが集まるタコツボ的な社会が形成されていった……というのが大まかな主張だと思う。表題の「やさしさ」は、この新しい社会を形成している価値観、「殲滅」はその価値観が旧来の価値観を滅ぼしていることを示している。


ゼロ年代の評論というと、宇野常寛さんの『ゼロ年代の想像力』みたいなザブカルチャー評論が中心というイメージがあって、それについての総括が待たれるのだけれど、社会状況と文化を結びつける評論はこれからもなくならないだろう。面白いから。でも、やっぱりサブカルチャーサブカルチャーなわけで、全体を俯瞰することはまず不可能であり、切り貼りすればいかようにも語りようがあるわけで、ちょっと鵜呑みにするのは避けたいところだ。ハイカルチャーの対であるサブカルチャーは、サブカルチャー自身も相対化して、常に振り子のように振れるから、取捨選択も容易だったりする。


現代評論は俯瞰が不可能なので、その評論には頷けるところと、頷けないところがある。一応の理屈は通っているものの、一つには政治についての話がないことと、もう一つには世界についての話がないことで、ゼロ年代の評論としては不十分さがあった。このあたりは、この本が「若者」についての評論することが中心になっていると思う。サブカルチャーと若者の親和性。


なので主軸に語られているのはサブカルチャーで、経済・政治についてはほぼ書かれていない。小泉純一郎についての言及がないし、世界でいえば911以降のアメリカについての言及がないのは、さすがにこの時代の社会を描きだすという行為に、絵具が足りていないように思う。書かれていないことを集めれば、「そうでもないよね?」と言うこともできそうだ。


書いていることに集中すれば、作者の鋭い観点が多々ある。特に、「やさしさ」によって「暴力」が排除されつつあるものの、「暴力」そのものは決してなくならないという主張は頷けるものがあった。暴力すらも旧来の価値観(ルサンチマンや若者の暴発といった見方)からは外れたものとして、秋葉原の通り魔事件について言及されている。この意味もなく発露する暴力性は、たぶんゼロ年代を通じて社会の上から下まで起きていて、サブカルチャーはもとより、政治の世界では郵政選挙、世界では911などがあって、ついには東日本大震災でピークを迎えた。


この現代評論は、ゼロ年代の気分について語ったものであると「あとがき」には書いていて、確かに時代の変わり目の、旧来からの価値観が通用しなくなり、新しいルールが次々に生まれ、模索していたころの空気について、腑に落ちる程度には説得力があると感じられた。でも、今にして思えば、失敗したものが大部分ではあっても、成功したものもたくさんあって、その成功したものが10年代の気分をつくっていくのだと思う。それは、批判的になりがちな現代評論とは別の、肯定的な言説によって、また描き出されるのではないか。


若者論として、その文脈で読めば、非常に優れた本だと思う。