『図書館戦争』

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映画を観るつもりだったので、その前に予習として購入。映画は……観る必要ないかな。

図書館戦争 図書館戦争シリーズ (1) (角川文庫)

図書館戦争 図書館戦争シリーズ (1) (角川文庫)

【内容】
───公序良俗を乱し人権を侵害する表現を取り締まる法律として『メディア良化法』が成立・施行された現代。
超法規的検閲に対抗するため、立てよ図書館!狩られる本を、明日を守れ!
敵は合法国家機関。
相手にとって不足なし。
正義の味方、図書館を駆ける!

笠原郁、熱血バカ
堂上篤、怒れるチビ。
小牧幹久、笑う正論。
手塚光、頑な少年。
柴崎麻子、情報屋。
玄田竜介、喧嘩屋中年。

この六名が戦う『図書館戦争』、近日開戦!


僕は有川浩という人の小説を読むのはこれがはじめてで、売れっ子小説家というのは知っていたけれども、それよりも去年の僕が観た映画の中ではワースト&不愉快な『阪急電車』の原作者というイメージしかなかった。『阪急電車』は本当に糞映画で、女性を「スイッチ入れるように泣ける音楽流せば(内容は糞でも)感動するんじゃね?」みたいな、「レイプしてもチ○コ入れたら気持ちよくなるよね?」的心意気が本当にご立派だったけれども、原作は音楽もないしオムニバスとしてそこそこ完成度の高い小説じゃないかな〜と思っていた。映画を憎んで原作憎まずの姿勢で。


でもさ、『図書館戦争』を読んでハッキリしたのだけれど、僕は有川浩という人とは決定的に相容れないと思った。今の世の中で、ここまで「リアリティ」というものについて無頓着であっていいのかと。そこは現代の小説家が一番気を配るところでないのかと。そして、なにかを問題提起するときにその無頓着さが逆に害悪となるんじゃないか、とさえ危惧する。僕はもちろん表現の自由を守るのは当然だし、検閲や焚書などは現代日本であってはならない愚行である、という立場なのだけれど、ハッキリ言えば『図書館戦争』で描かれるのは幼児的な世界観でしかない。


もちろん、「表現の自由が規制された日本」という設定がダメだ、と断じているわけではない。表現の自由が規制された世界、というディストピア設定はSFでは一般的なもので、『華氏451』や、最近の映画ではガン=カタで有名な『リベリオン』などがあるし、歴史を紐解いても検閲や焚書が行われていた時代や場所はたくさんあった。現在でもイスラム教の影響が強い国や、独裁政権下では、そういうことが行われているという。でも、フィクションとして、例えば「現在のアメリカが国家として思想統制的な検閲や焚書している」ように描く映画はほとんど記憶にない。なぜなら、起こりえないからだ。


起こりえないことについてはリアリティが低くなるのは当然のことだ。それでも、「起こるかもしれないじゃないか!」と思う人もいるかもしれない。しかし、ちょっと考えれば分かるように、強権的な検閲や焚書ができる国家というのはファシズム的な性格を帯びているわけで、そのような政体が幅をきかせている国にアメリカがなったとしたら、それは僕らの目から観れば、もはや別の国にしか見えないだろう。そこに、ディストピア設定が遠い未来や、平行世界での出来事として描かれる理由がある。また、歴史的な描き方や、別の野蛮な国として描く方法もあると思う。


さて、『図書館戦争』で描かれるのは、現在の日本だ。(平成じゃなくて正化という年号なので平行世界で、しかも刊行された年から計算すれば10年後の近未来ということになっているが)物語のどこをどう読んでも、未来的な描写が何一つないので、現在の日本と考えてもいいと思う。僕は「本が検閲され、街にある普通の本屋が国家所属の武装集団に襲われる現在の日本」が舞台で、「図書館が本を守るために武装し」、「公的機関同士が戦争をする」という物語の根幹3つについて「どういうこと?」という疑問しか沸かなかった。いろいろと説明はされているけれども、「それって理屈としておかしいよね?」という疑問が晴れることはない。そして、この3つが揃って描かれるのは、恐るべき人命軽視の世界観だ。僕は『図書館戦争』を読んでいて、本を守るよりも、人を守ることを優先しろよ! と憤慨してしまった。本を守るとは、つまり図書館が武装して戦争することではないはずだからだ。


言うては悪いけれども、有川浩は「書けないものについては書かない」を徹底することで小説としての体裁を整えるタイプの作家だと思う。「メディア良化法」や「メディア良化隊」や「図書館の武装」というアイデアの設定は語れても、それが社会をどう変容させるかについては説得力があるものを提示できないので書かない。現代の日本を舞台にした突飛な設定というのは、それを描くには相当な知識と理解がないと無理なので、それは正しいとは思うのだけれど、「書けないものについては書かない」という技法は恋愛小説やコメディーでこそ効果的で、『図書館戦争』のような物語では逆効果じゃないかなと思う。一方で、有川浩のこの作風があるからこそ、『図書館戦争』の登場人物たちは魅力的に描かれている。そこに「戦争」と言いながらも、この物語が「ごっことしての戦争」であるという限界がある。


よく、「『図書館戦争』ってこれはこういうものだから、と思えば楽しめるよ」みたいな言があるけれども、「これはこういうものだから」と笠原たちの戦争ごっことコメディドラマを楽しむのを強いるって、小説としてはちょっとダメすぎだと思う。あと、有川浩の設定に対する無頓着さは、言論統制に対する警鐘については役に立たず、現実に行われている言論の自主規制的風潮を目隠ししているのでは? と思った。この小説で描かれるような幼稚さは現実にはなく、もっと巧妙に、もっと誰もが反対しがたいように言葉が縛られているのにね。