『日本文化の論点』

本屋で購入。

日本文化の論点 (ちくま新書)

日本文化の論点 (ちくま新書)


作者の宇野常寛さんは、サブカルチャーに主軸を置いた評論家で、『ゼロ年代の想像力』を書いた新進気鋭の論者でもある。僕はテレビの『ニッポンのジレンマ』とかのトークで、現在の日本のカルチャーや社会的な傾向を「語れる」言葉を持った人だな〜と感じていた。で、僕自身もサブカル学芸員をしているので、本屋でこの新書が出ていたので買ったのだけれど……


僕が読んだ感想で言えば、ハッキリと「これは東京文化の論点であって、日本文化の論点ではない」というものだった。


この本で書かれていることを要約すると、日本には旧来からの立ち行かなくなっているけれども強固な「昼の世界」と、インターネット時代になって芽吹いた「夜の世界」があって、「夜の世界」が「昼の世界」を変えていく過程が今の日本文化で起きていること、というものだと思う。その証拠としてインターネットやAKBが採り上げられているのだけれども、僕は途中までは面白く読んでいたのだけれど、だんだんと腹立たしい気持ちが沸き上がってきた。


というのも、ここで語られている「夜の世界」と「昼の世界」の関係は、僕から言わせれば2つ併せて「東京文化」のことしか語っていないからだ。もしくは、311以降表面化した「東の世界」というものがあって、「西の世界」に住んでいる僕からしてみたら「はーそうですか。ご説ごもっともだけれど、こっちには関係ないね」としか言いようがない。これがたぶん、僕が読んで感じた腹立たしい気持ちの原因だと思う。


僕のところから見れば、「ニコニコ超会議」だろうが「AKB48」だろうが、それは東京という何でも揃った首都で起きていることで、それは作者が「変化した」と言っているかつての日本文化と陸続きの、単にプレイヤーが巨大化したものにしか映らない。「花のお江戸」を伝え聞く感覚と同じだ。もしくは、そういう東京文化の残滓が「西の世界」にも流れているけれども、東京には東京の巨大な地理があり、そこを普段の生活で眺めている僕たちには、別の(ハッキリ言えば泥臭くて貧乏くさい)文化の論点があるはずなのだ。


だから、ここで語られている日本文化みたいな東京文化が、やがて世界的な問題を解決する糸口になるという作者の「見通し」については、例えば韓国のソウルではそうかもしれないし、インドネシアジャカルタでもそうかもしれないが、局地的なものにとどまるとしか思えない。なぜなら、東京のように「なんでもある」場所はそんなにないからだ。ただ、世界各地の首都的な場所に通用するなら、それはビジネスとしてはアリかもしれないが、メインストリームになるには要求しているハードルは超高いものだと思う。


僕は作者の宇野常寛さんはそういうことを「分かって」書いているのかと思っていたのだけれど、腹立たしさの一番の原因は、Jリーグについての知見の浅さを開陳しているところにあると思った。あんまり引用もしたくないんだけれども、126ページの

J1やJ2の優勝チームがほとんど気にされない一方で、前田敦子大島優子のどちらが選挙に勝ったかは、この話題が注目されること自体が気にくわないという人も含めてみんな気にしている。


で、僕は仰け反ったね。


え、マジで? 俺、小娘よりもJ1とJ2のほうが興味あるけれど。


と、本気で思った。サポーターは全員激怒してもいいんじゃないか。AKBなんて「西の世界」で汗水垂らして働いているオッサン連中には知名度なんてないし、JリーグとAKBを比較するなんて馬鹿なことは意味がないし、秋元康の空中戦と「東京劇場」のらんちき騒ぎなんて、こっちから見ているぶんには旧態依然とした部分だけが目立っている。さらに言えば、クラブごとの地道な努力やサポーターを含めての活動、Jリーグにもしっかりとある文化を考えると、ちょっとどうかと思うくだりだった。ここでカチンときた余韻で、たぶん読後感が最悪なものになったと思う。


ただ、「東京文化の論点」として読めば、新進気鋭のサブカル評論家が書いた新書としては楽しく読めるものになっていると思う。コンテンツを売るのではなく、楽しみ方までをパッケージして売るべき、というのは正しい考え方だと思うし、東京の現在(地理と時間の話)を知る上での有用さもありがたいものがある。それに、東京に長らく住んでいる宇野常寛さんが、「東の文化」と「西の文化」の乖離に気付けるのかといえば、そりゃ酷な話かもしれないし、評論家と言っても何でも知っているわけでもないから、JリーグをDisるつもりはなくてもDisることはあるかもしれない。


でも、こっちじゃあ通用しない論点だね、ということだけはハッキリしている。よくやって関東平野限定。