『当事者の時代』

ITジャーナリストの佐々木俊尚さんが、メディアインサイダーとして書いた入魂の書。


「当事者」の時代 (光文社新書)

「当事者」の時代 (光文社新書)


今、メディアの現場と、インターネット界隈の言論や思考の乖離と対立が激しくなってきている。例えば、最近の問題で言えばコレ。

囲み取材で女性記者に激怒「答えられないならココに来るな」
橋下徹大阪市長が、囲み取材で女性記者相手に「逆質問」し、「答えられないならココに来るな」などと激怒した。女性記者も負けじと質問を繰り返した。
テーマは、いわゆる「卒業式の国歌斉唱時、教員の口元チェック」問題だ。「逆質問」への答えを求める橋下市長と、質問を続けようとする女性記者との押し問答などが続いた。

http://www.j-cast.com/2012/05/08131435.html
(Jcastニュース)


僕は橋下市長については大阪市民ではないので外野的な視点しか持ち得ないのだけれども、このニュースと動画を見ると、MBSの女性記者よりも橋下市長のほうを応援したくなる。というよりも、どちらかというとMBSの女性記者に、よりシンパシーを感じない。ジャーナリズムというのは少なくとも視聴者に沿ったものであるはずなのに、なぜ僕は女性記者にシンパシーを感じないのだろう?


という疑問を日本人の精神性とマスメディアの構造を概説しながら、思想面で「夜回り共同体」と「マイノリティ憑依」というキーワードを中心に回答するという、クリティカルで目から鱗が落ちる内容になっている。特に「マイノリティ憑依」という方法論が、最初は一部の思想家だけが持つ得意な思想だったのが、本多勝一さんによってメディアに持ち込まれ、さらには現在ではネットの言論やソーシャルメディアによって、一般にも浸透していくさまが描かれている。個人的には「マイノリティ憑依」という方法論が浸透していったのは、それだけ言葉を使う人間にとって魅力的だったからだと思う。僕は小説を書いているから、その視点はとても自然なものにも映る。


「マイノリティ憑依」が本当のマイノリティであるときは、それなりに有用な方法論だったのが、高度に複雑化した現在では誰が「弱者」で誰が「強者」なのか、過去の分類ができない状態になっている。誰もが「弱者」でありながら「強者」である存在。その中で「マイノリティ憑依」される対象や、リベラル的言動が守る対象が特権的弱者であることに、メディアからの情報を受け取る側は不公平感と違和感を覚えるのだと思う。「市民」というモヤッとしたものを背負うときに垣間見える、大正義の風格には本当にヘドが出る……というネットの風潮に繋がっている。


この乖離と対立を、再び埋め合わせるものとして佐々木俊尚さんが提示しているのが「当事者性」ということになる。傍観者の立場から憑依するのではなく、当事者性を保つことで、イメージ上のモヤッとした霧を突破できる……というのは、東日本大震災でより鮮明になった視点だと思う。あの規模で誰もが当時者になったからこそ、この本の主張にも説得力が生まれている。


でも、「当事者性」というものは「大きな物語」と容易にすりかわるものであるようにも思う。東日本大震災は「当時者性」も「大きな物語」も東日本の人々に与えた。僕は西日本の、それも九州に住んでいて、東日本大震災の影響は振動的には少しも感じることはなかったし、情報もテレビを通してでしか得ていない。なので、「頑張ろう日本」と盛り上がる放送を見ても、なんだか取り残されているような感覚があった。かといって、水を買いだめするような状況にならなくて良かったとも思うけれども、やはり九州と関東東北とでは温度差があると思う。『「当事者」の時代』でも、当事者には求めてなれるものではないと書かれていて、そこに難しさが示唆されているけれども、この温度差がやがては大分裂に繋がるようなこともあるかもしれない。


「当事者性」を持つという佐々木俊尚さんの提案が、どういう展開を見せるかが、今後の注目点だと思う。個人的には「覚醒」を求める思想というのは、日本には伝統的な思想的変遷があって、そこに新しいメソッドが組み込まれれば面白いような気がする。絵空事ではない、現実を生きる者にとっての哲学として。