推敲師と設定マニア

短編を書こうと思っているのですが、やはり文章が下手。というよりも文章の書き方が、ここにきて固まってきているのかなと思った。つまり【パソコンで下書き】→【手書きで推敲】→【パソコンで再推敲】のパターン。執筆の効率化を考えれば、最初の下書き部分である程度のレベルにまでなっていないと、数はこなせないような気がするけれども、どうも文章構成能力が低いので、下書きを見てからじゃないと上手な文章が書けないのだ。しかも、推敲の回数も酷いときは何十回もしたりする。だから一度くらいの推敲で小説を投稿できる人がある意味羨ましい。そんなことを考えながら、今日は一日小説を書いていた。
僕は一作ずつジャンルを変えていきたいので、今回は三世紀〜四世紀ごろの日本を舞台にした話にした。四世紀というのは日本史の中では謎の世紀と言われていて、伝説と史実の入り混じった時代という印象がある。神功皇后三韓征伐とか、日本武尊とか。だから設定的に無茶なものでも、かなり通りやすいような気がするがどうだろうか。考古学的な成果や記紀の研究などで、この時代もかなりが明らかになってきていると思うが、文字でしか解らないことと、文字では書き記されなかったことの間に、何があったのかとかが気になる。と、こういうことを書きつつも、実際は単純な話になる予定なのだが。
設定を考えることの意味は、理由付けと世界観に広がりをもたせるためだと思う。設定には「意味を含めた設定」と「言葉だけの設定」の二つがあるけれども、「意味を含めた設定」を本当に考えて書いている書き手は少ない。しかし、「神は細部に宿る」の言葉を肯定するなら、避けては通れない道だろう。昔、ロバート・デ・ニーロは『タクシードライバー』の主人公を演じたとき、主人公の些細な動作や行動まで一つ一つ理由をつけていったという。映画を観る人間はそういう理由を「知る」ことはできないが「感じる」ことはできる。小説もほぼ同じだろう。感じさせることを疎かにしてしまえば、小説の場合、読み手はただ文字を読むだけではないかと思う。で、なぜ設定を作る必要があるかといえば「題材」を活かし「出来事」を作るためだ。
「題材」と「出来事」については小説の本質に迫るキーワードだと思う。ここで独自性が出るか出ないかで、生きる死ぬが決まると言っても過言ではないかも知れないが、そういう認識はネット小説界隈ではほとんどないので、(個人的な意味で)まだ安心できる。文章が上手ければ小説が上手いと思うのは錯覚であって、鍛えるべきは玉石混淆の世界から、どうやって玉を見出すかの眼力なのだ。そういうようなことを考えていると、ハリウッド映画はネタ切れと言われて久しいが、ネット小説界は最初からネタ切れのような気がする。でも「地球の裏側のことは知りようがない」と思う人もいるかもしれない。ほとんどの人はそう考えているのだが、そういうときにこそ【インターネット】と【小説力】があるということを思い出すべきではないだろうか??