『かぐや姫の物語』

試写会で鑑賞。



【ストーリー】
竹林で拾った女の子が、みんなの求婚を袖にして、月に帰る。


【見所】
高畑勲監督が「今日ひとつの到達点を示している」とまで言ったアニメーション表現。
それは、見所と言っても良いレベル。
だけど……


【感想】
今回は、点数を付けます。
75点!


高畑勲監督という人は、宮崎駿という太陽(しかも超巨大)があるとするなら、本当に月のような人だと思う。『火垂るの墓』という傑作を世に出した映画監督だけれど、商業的には失敗すると解っているアニメーション映画を出してきたというイメージしかない。たぶん、ジブリ全盛だったときに出した『平成狸合戦ぽんぽこ』あたりで、ジブリには宮崎駿高畑勲の二輪があるという認知ができて、『ホーホケキョ となりの山田くん』で見向きもされなかったのが、興行的に難しかったのかなぁと思う。そんな人が「かぐや姫」の監督をする! と聞いたときは、「マジで? どんな勝算があって??」と心配になったのだけれど。


実際に出来上がったものを観ると、鈴木敏夫プロデューサーは明確に、『風立ちぬ』と『かぐや姫の物語』を同時に上映することに意味を持たせていたと思う。なんとなく、最初は『風立ちぬ』で宮崎駿高畑勲的な映画を作って、『かぐや姫の物語』で高畑勲宮崎駿的な映画を作る……という企画だったのでは? というような気がする。でも、『かぐや姫の物語』の完成の遅れによって同時上映がなくなってしまったので、個々の映画としての評価に留まってしまうのかなと思った。


高畑勲監督の作品は、『セロ弾きのゴーシュ』と『火垂るの墓』と『平成狸合戦ぽんぽこ』は観ていて、『おもいでぽろぽろ』も観たけれどもあんまり記憶にない。作風は、「イデアを求めるけれども現実に対峙せざるをえない」話が多いな〜という印象。『火垂るの墓』なんかまさに兄妹の理想の世界を求めて餓死する話だし、『平成狸合戦ぽんぽこ』もタヌキが理想を求めて戦うけれども敗北する話だった。そういうシニカルな視線を、楽しく描くことができる人だと思う。


今作の『かぐや姫の物語』は、ほぼ原典の竹取物語に忠実な内容になっている。かぐや姫の誕生や、金が竹から出てくるところや、5人の貴人の求婚に応える条件として難題を与えるところや、月に帰るときに衣を羽織ると人間性が失われるところとか。原典にはあって描かれなかったところに、月の使者が与えるはずの不老不死の霊薬や言葉の由来などは端折られていた。オリジナル要素もあって、その一番は、かぐや姫が活発な少女だったという描写と、捨丸という幼馴染み、教育係の相模と女童の存在が付け足されている。かぐや姫の性格と幼馴染みとの関係は、竹取物語を現代的なドラマにするうえで欠かせないもので、最も泣ける部分だった。


映画自体は期待値以上の出来映えだった。竹取物語という人口に膾炙された物語の強さ、淡彩で描かれた背景、かぐや姫の性格などが作品にパワーを与えている。序盤のかぐや姫の急成長のシーンは、カットごとに少しずつ大きくしているはずだし、演出の細やかさなどは高畑勲監督の名人芸だと感じられた。劇中で流れる歌と音楽も非常に良くて、「回れ回れみずぐるま〜」の歌が出てくるだけで泣けるものがあった。しかも、ラストにはこの歌が重要な役割を果たすし。キャラクターでは女童がとても良い。あの『らき☆すた』の泉こなたっぽさが最高だった。


でも、やっぱり「なぜ今、竹取物語なのか?」という疑問への解答がなされなかった。これは、たぶん2つの要素があって、1つは『風立ちぬ』との同時上映であれば、本作のテーマ性がより際立ったということ、もう1つは『劇場版 魔法少女まどかマギカ[新編]叛逆の物語』という物凄いものが出てしまって、映像表現に驚きがなくなってしまったことで、解答はあるにしても陳腐化してしまったなと。これが夏に公開されたら、淡彩の表現は大絶賛されていたはず(現在でも評価ポイントではある)。


特に、月からの使者が降りてくるシーンで、その使者のビジュアルが「極楽浄土の仏陀」だったのは、ちょっとそれはないんじゃないかなと思った。さすがに市川崑監督の『竹取物語』みたいにUFOが降り立つ……とまではいかなくても、異質なもの表現があれでは、同じように菩薩(女神)になったまどかが天から降りてきた「まどかマギカ」に負けてるよと。そもそも、月が仏教における極楽浄土というのは如何なものか。


キャラクターでは、翁が最後まで理解のない凡愚として描かれているのがマイナスだったと思う。「帝の妃になるくらいなら死ぬ」と言う場面や、「月に帰らないといけない」と言う場面で、なにかしらの相互理解の演出があったほうがよかった。それと、捨丸とかぐや姫の空中デートがああいう終わりかたをするのも残念だった。捨丸はあの時点で妻子がいるわけで、子供がやってきて我に返って「ごめん、やっぱり俺は家庭を取るわ」とかぐや姫をふるべきだった。それをしてしまうと、かぐや姫が地上に未練がなくなってしまうという難点があるだろうけれど。


結局のところ、かぐや姫がなにをもって地上にいたいと切望しているのか、それが明示されていないことが問題だと思う。それこそ「罪と罰」の話になるのだけれど、無味乾燥とした月の世界には自由がなく、彩りあふれた地上に憧れるという「罪」を犯したかぐや姫は、地上で高貴な存在になっていくことで自由を失ってしまうという「罰」を受けた。さらに、天に帰るということも「罰」に含まれるのかもしれない。ただ、嫌がっているのに月に帰るという終わりかたは、あまりに救いがないし、現代的でもない。かぐや姫に共感できても、この物語に共感できる部分が薄いことこそ、この作品の欠点ではないだろうか。


見終わってみると、高畑勲監督の「イデアを求めるけれども現実に対峙せざるをえない」話だったと強く感じた。それでも、全体的には満足度が高い映画だったけれども、「今日ひとつの到達点を示している」のではなく「今日ひとつの到達点を突破している」ものを観たかった。