アルとプリの話。

映画を観ていて「あれ?」と思う矛盾点を観たとき、「ま、でも許せるよね」と思うのか「あーダメ映画だ……」と思うのかの差は、どこにあるのかという点について考えます。

プリンセス・トヨトミの矛盾点】
アルマゲドンの矛盾点】
【物語の本質か、そうではないか】
【リアリティは「現実」を意味しない】

の4点で話を進めます。これはおそらく映画だけでなく、物語全般に言えることだと思います。


プリンセス・トヨトミの矛盾点】
プリンセス・トヨトミ』の矛盾点はかなりあります。「大阪国国会議事堂の廊下を歩くのは一生に2度なのに、序盤のOJOの職員が消えた理由が無視されている」ところと、「茶子が大阪国の王女であることは、大阪国の国民でも一部しか知らないのに、それを守るのは無理がある(ヤクザの事務所に殴り込むのを、どう守るつもりだったのか?)」ところと、「大阪国の住民が多すぎて、これを隠し通すのは無理」ところと、「それなのに漆原教授が大阪国民でなく、松平に協力するのはおかしい」ところ……などなど、挙げればきりがありません。一方、「大阪には『大阪国』という国家があった」というアイデアそのものは面白いと思います。


アルマゲドンの矛盾点】
大味バカ映画の金字塔『アルマゲドン』の矛盾点として、有名なのは「ミールや小惑星テキサス州程度の大きさ)に重力がある」ところと、「宇宙空間で火が燃えまくる(酸素がある?)」ところと、「宇宙服が異常に丈夫」なところと、「そもそも科学考証的におかしい」ところが挙げられると思います。こちらも矛盾点と言えば大きくないですし、特にミールの重力描写はマイケル・ベイ監督の思いっきりのよさが炸裂しています。


【物語の本質か、そうではないか】
でも、『プリンセス・トヨトミ』と『アルマゲドン』の矛盾点は同じ荒唐無稽な話であるにも関わらず、一方では「荒唐無稽でデタラメすぎるダメ映画」という感想になり、もう一方では「荒唐無稽で破天荒な面白さがある映画」という感想になるのは、どこに差があるのでしょう。もちろん、制作費やハリウッドの特撮技術は、日本映画と比べても雲泥の差があるのですが、それ以前に「物語の根幹の部分に触れる矛盾かそうでないか」が重要であると思います。


アルマゲドン』の場合、重力があろうがなかろうが、「小惑星に乗り込んで隕石を爆破する」という大筋に影響を与える話にはなっていません。ちゃんと二本足で立って作業するか、浮かんでいる状態で作業するかの違いくらいです。火が燃えている描写も、そこは「派手さ」の演出でいいよね、という程度に話の本筋とは関係ありません。


プリンセス・トヨトミ』の場合、上に挙げた数々の矛盾点は「会計検査官の松平が大阪国の陰謀を暴く」という大筋に影響を与える話になっています。この話は物語の根幹に矛盾が存在して、それが解消されないまま展開されるので、「荒唐無稽な話」が「デタラメに処理される」というミスを犯していると思います。おそらく、小説を映画脚本にするときに、細かな意味まで汲み取っていないから、このような映画が出来上がるのではないでしょうか?


【リアリティは「現実」を意味しない】
映画を見ていて「リアリティがないなぁ」と思うときがありますが、『アルマゲドン』を観てそう感じる人はあまりいないのに対し、『プリンセス・トヨトミ』を観てそう感じる人は多いように思えます。同じ荒唐無稽な映画にもかかわらず、リアリティについて不満が出たり出なかったりするのはなぜでしょうか?


僕は「リアリティはあったほうがいい」という立場ですが、そもそも「リアリティ」とは何かという問題について考えてみると、それは「物語上の現実と、観客の現実の架け橋になるもの」にあると思います。つまり、リアリティとは本来は「受け手が納得できるロジック」を意味しています。


例えば、カートゥーンアニメのリアリティは、「キャラクターが潰れても生きている」というもので、そこを納得させる(これはアニメだからなんでもあり)というロジックがあるので、「なんでトムとジェリーは潰れても血まみれにならないのだろう?」とは観客が思わないようにできています。また、これを逆手にとった「フェイクドキュメンタリー」という表現方法の映画もあります。


アルマゲドン』の上手いところは、このリアリティの設定の絶妙さにあって、主人公たちが石油採掘人(=バカ)であることが、ぐっと物語のロジックを押し下げていますし、意外に石油採掘人が宇宙に行く、行くことができるロジックについても手を抜かずに語り尽くしています。


ですが、『プリンセス・トヨトミ』の場合、現代日本を舞台にしているというそもそものリアリティの高さに加えて、序盤で会計監査員の仕事ぶりをかなりキッチリ描いているので、その後に展開される物語がとんでもなくデタラメなものに映る仕様になっています。また、大阪国を成り立たせるロジックの積み重ねについても、非常に甘い作りになっていると言わざるをえません。


よく、「ギャグマンガじゃなければ死んでた」というセリフが漫画にはありますが、物語的には「この話はどのレベルの現実で、観客の現実とブリッジを掛けるのか」という意識を作り手が持つことが、その出来を左右することにも繋がると思います。


【まとめ】
古畑任三郎で、上手い嘘とは「1つだけの嘘に、周りは全て真実で固める」というようなことを言う場面がありますが、それは作り話にも当てはまると思います。『アルマゲドン』はあらすじをどう語っても「重力」は関係しませんが、『プリンセス・トヨトミ』ではあらすじを語れば語るほど、「大阪国」の矛盾が出てきます。


物語の作り方として、
「本筋に関わる矛盾は無視しない(矛盾があるなら、それを解消する展開を用意する)」
「物語上のリアリティを意識する(受け手の「現実」に近づけるのか、それとも思いっきりハードルを下げるのか)」
この2つは重要だと思います。そこに自覚的であれば、普通に良い物語を作ることができるはずです。もちろん、優れたアイデアや、語り方の妙技は必要になってくるでしょうが。