結論への過程

高速道路で追突事故を見た。たぶん、一人死んでた。

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「正義」には規制が掛かるが、「悪」には弁護が入る。

<光母子殺害>差し戻し控訴審で死刑4月22日12時3分配信 毎日新聞

 山口県光市で99年に母子を殺害したとして、殺人罪などに問われた当時18歳の元少年(27)の差し戻し控訴審で、広島高裁は22日、無期懲役判決を破棄し、求刑通り死刑を言い渡した。

妥当。至極妥当な判決だと思う。
この「死刑」という判断は、日本の司法のありかたを問い直すものになるだろう。でも、この司法のありかたへの問い掛けが、司法関係者ではなく(マスコミでもなく)、被害者遺族の血を吐くような思いから出てきたというのは、その意味を熟慮しなければならない。本村洋さんがメディアで理路整然と話すことによって、被害者遺族の立場はずいぶん考慮された。さらに、「死刑制度」についての是非を問い直すことにも繋がっただろう。裁判員制度を前にして、人を裁くとはどういうことかを考える契機にもなった。
この裁判で、一番戦っていたのは、被告でも弁護団でも検察でも裁判官でもなく、(本来蚊帳の外にいるはずの)本村洋さんだと思う。彼の言葉はとても理路整然としている(しかも攻撃的な雰囲気もある)から、犯罪被害者としての立場を乱用していると見ている人もいるかもしれないが、司法という巨大な壁に戦うには、そうなるしかなかったのだろう。稀有な人が稀有な事件で登場したから、そこに違和感を覚える人は当然いるだろうけれど、蟷螂の斧でも象を揺るがすことはあるんだなぁと思って、ちょっと目頭が熱くなりました。

  • 死刑について

「死刑が犯罪抑止力に効果がない」という説が本当なのか? その検証はしているのかを知りたい。
外国の先進国では死刑がほとんどないという。しかし、現場の警察官が犯人を射殺する件数はどうなのか? 死刑に値する犯罪者は、実は警察が自分たちの裁量で処刑しているんじゃないの? と思ったりするが、実際はどうなのだろう。
日本は暴力装置の一極である「軍隊」を禁じている。次にもう一つの極である「死刑」を禁じたとき、国家は国民に対して何を以って暴力を禁じる担保を与えるのだろうか?

  • 僕個人の意見

国が人を殺すことに対する「違和感」は当然のものではあるけれども、それは国家と人間の関係が自然ではないからに尽きると思う。国が人を裁くことも、国が人を拘束することも、国が人とかかわることも、全てにおいて「違和感」はつきまとう。じゃあ、その「違和感」は消せばいいの? 死刑制度は国が人を殺すという「違和感」があるから消せばいいのか? 裁判制度は国が人を裁くという「違和感」があるからいらなくないか? 国が人の自由を奪う警察という存在についても「違和感」があるから無くなればいいのか? そもそも人の存在を左右する国なるものは無くなるべきではないか?
国が人を殺すというのは、僕ら一人ひとりが、(犯罪に対する責任として)人殺しの罪を分担して背負うことだ。それは歩けばアリを踏む程度に回避できない罪でありながら、見逃す事のできない罪でもある。だから自分たちの問題として「死刑」の是非を考えるべきだと思う。