『ウルヴァリン:X-MEN ZERO』

テレビで鑑賞。



【ストーリー】
不老不死と超回復を持つ男、ローガンが、彼を狙うアメリカ軍の秘密組織と戦う。


【見所】
X−MENの映画としては、そんなに派手でもないが、話自体はしっかりしている。
ローガン(ウルヴァリン)と、ビクター(セイバートゥース)の骨肉の争いは良かった。


【感想】
X−MENのスピンオフ作品というか、ウルヴァリンX−MENの枠を超えた存在であるから、マーブルユニバース的にも作りやすかったのだろうね。今回は、最新作の『ウルヴァリン:SAMURAI』がそこそこ良かったので、良い機会だからということで鑑賞。X−MEN自体はそんなに興味はないんだけれどね。で、先に『ウルヴァリン:SAMURAI』を観ていたからなのか、あちらで「あれ?」と思っていたところの解答がいろいろとなされてあって、そこは良かったものの、シリーズものの宿命なのか通しで観てみないと良く分からない部分も多々あった。


ちなみに、僕が「あれ?」と思ったのは、『ウルヴァリン:SAMURAI』で超回復機能が失われたローガンが、ヤクザにバンバン撃たれまくっても死ななかったところ。スーパーヒーローものだし、ウルヴァリンだから、銃撃の一発や二発大丈夫なのかと思っていたのだけれど、そうではなくて全身の骨格がアダマンチウムだからなのか。逆に、『ウルヴァリン:X-MEN ZERO』を観て、「あれ?」と思ったところもあって、それはこの作品で記憶を失ったローガンが、なんで長崎の出来事を覚えているのかというところ。これは、X−MENの他シリーズ作を観れば解決することなのかもしれないが。


物語は、結構オーソドックスにX−MENのビギニングをしている。ウルヴァリンの誕生の物語に、シリーズのなじみ深い面々が絡んで……というのはフォーマット通りに感じられた。監督はギャヴィン・フッドという人で、この人が監督した作品を今まで観たことがなくて、フィルモグラフィーを観てみると社会派サスペンスを得意としている監督みたい。その手腕は、ローガンとビクターの関係などに活かされているようだが、一方で、派手なディザスターシーンなどの見せ場を作るところに関しては苦労しているような印象を受けた。良かった点は、ローガンとビクターの愛憎入り交じる関係と、ローガンとケイラの再開の場面。ここは観ていてグッとくるものがあった。


話としては、ウルヴァリン個人の物語になっているために、X−MENで語られているミュータントの差別問題というのは、ここではそれほど語られない。アメリカ軍がミュータントを使ってなにか悪いことをしているくらい。でも、それでも脚本上触れざるをえないところではあっただろうし、中途半端に触れているために観ていてあまり真に迫るものがなかった。ローガン自身の迫害されている描写がないというのが、一番の理由のような気がする。なんか、寝ていたら悪夢で爪が出るような身体でも、ちゃんと受け入れてくれる人がいるし、そこそこ素朴な生活を営んでいるから。もう少し語りようがあったとは思うものの、それをやるとX−MENのシリーズでいいわけだし、『マン・オブ・スティール』みたいな感じになりかねない。たぶん、これの反省から、『ウルヴァリン:SAMURAI』ではミュータントの差別問題が全然ない世界観を作ったのだと思う。


しかし、目的のためには手段を選ばない男ストライカーの、バカっぽさだけが目立つ作品だったなぁと。ウルヴァリンに改造手術をしてから脳手術をするという順番で脱出されるって、まんま『仮面ライダー』ちっくな逃げられかたで笑えるし、アダマンチウムと超回復でほぼ無敵になったウルヴァリンを殺そうとするというのも本末転倒だと。結局の所、この映画のストライカーって「敵になろう敵になろうと努力している悪役」なんだよね。もうちょっと騙すにせよ、騙しかたを貫徹したほうが良かったのでは? と思ったり、わざわざウルヴァリンと敵対して、しかも将軍まで殺してなにがしたかったのかがイマイチ良く分からない。「ミュータント抹殺のためにデッドプールを作る」という目的は一応あるのだけれども、この作品だけ観てもミュータント問題がどの程度なのか分からないので、「そんなことする必要があるのか?」としか思えなかった。シリーズ通しで観れば、そこそこの理は立つとは思うけれど、それでも薄弱だ。


最後に、ヒュー・ジャックマンが若い! ウルヴァリンは不老不死だけれど、ヒュー・ジャックマンは年を取るよね……というのが如実に感じられた。


【おまけ】
最近、スーパーヒーロー映画を立て続けに観ているせいか、ヒーローが「戦う理由」について考えてみた。


例えば邦画では『ガッチャマン』とかに顕著なんだけれども、日本人ヒーローというのは「納得」を最優先させる部分があると思う。悪と戦うことではなく、悪と戦うだけの納得できる理由があってこそ、正義の暴力を振るうことができる。これは、日本の国そのものの在り方がそうだから……という面もあるだろうが、一番の理由は恋愛映画的なメソッドが発達していて、戦いにもその図式を当て嵌めているからだと思う。恋愛映画では、恋に落ちる納得できる理由、キスをする納得できる理由、セックスをする納得できる理由、結婚する納得できる理由を重ねることでストーリーが生まれる(そこまで丁寧な恋愛映画も最近は少ないけれどね)。


で、ハリウッドではどうかというと、「納得」というファクターはあまり重視されないんだよね。ハリウッドで重視される戦う理由は、ズバリ「資格」にある。敵がいたらブチ殺す! そこに納得もクソもない、というのは、西部劇の時代から身を守るのは自分の銃だけだ! な世界観のアメリカ人にとっては当然の理屈である。昨今、「リアル方向のスーパーヒーロー像」ということでノーラン版のバットマンとかがその代表格で、悩むことが特徴みたいな言われかたをしているけれども、本質的に邦画とハリウッド映画とでは悩みの質が違う。ハリウッドのスーパーヒーローの「戦う理由」というのは、端的に言えば「俺は戦う資格があるのか?」という自問に対する解答である。


「納得」というのは感覚的なものだから、いつまでも「これでいいのだろうか?」と悩むことができるし、キャラクターとしての深みも与えられるという利点があるが、逆に言えば、納得とかどうでもいいから! というときに足枷となるストーリー展開になる危険性もある。そうなれば観客にはバカとしか映らないから、キャラクターの深みも一気に薄っぺらいものになってしまいがちだ。そういうふうに爆死した邦画は枚挙に暇がない。というか、「納得」というのは、スーパーヒーローには不必要なものだと思う。仮面ライダーウルトラマンも、変身してしまえば基本ぶん殴って敵を倒すだけだ。


一方、「資格」というのは物質的なものだから、一度それを手に入れたら悪党相手に暴力を振るうのは「当然のこと」となる。スーパーヒーローのコスチュームって、「自分には戦う資格があるんですよ〜」という目印なんだよね。でも、あんまり脳天気だとバカっぽくなるので、平時にはコスチュームを脱いで、私生活では私生活の悩みみたいな姿を描く。でも、基本的にはバットマンが「俺がジョーカーをぶん殴るのは釈然としないなぁ」なんてことは考えないわけだ。


そう考えると、ハリウッドで「ビギンズ」ものが流行っている理由も、なんとなく理解できる。ハリウッド的な価値観では、選ばれた人間が「資格」を手にする(認識する)までの物語にこそ、キャラクターに深みを与えることができるからだ。もしくは、『ダークナイト』のように「資格」を手にすることができなかった男の物語(もしくは「資格」を手にすることを邪魔する悪魔の物語)として語ることも可能なのかなと。最近観た邦画の中では、『変態仮面』は戦う理由を「資格」に見出した希有な作品だと思う。


X−MENの場合は、ミュータントというパワーが「資格」になっているのだけれども、そこに差別というナーイブな問題を組み込んでいるところに特徴がある。でも、X−MENも「プロフェッサーX側に立って人間との共存を図るために戦う」か「マグニートの側に立ってミュータントの世界を作るために戦う」という二つの間で揺れ動くだけで、戦うことに対する納得云々という場面はあまりない。動機付けという面で、ウルヴァリンX−MENの一員になるのを嫌がるといった場面はあるものの、済し崩し的に巻き込まれて「こうなったらやったるぜ!」となるんだよね。


つまり、「暴力」というものの捉え方の違い、「暴力」を行使することについての見解の違いがそこにはあるのだと思う。