死刑嘆願書

『北京で蝶が羽ばたくと、ニューヨークで嵐が起きる。そのとき、蝶は嵐を起こした罪で地獄に落ちるのだろうか?』
それを考えるのが、モラルだと思う。
今日、職場である事件の「死刑嘆願書」に名前を書いてほしいという話があった。良くある署名形式の、名前と判子を押すタイプのものだったけれども、僕はあまり乗り気ではなかった。制度としての「死刑」については反論するところはないけれども、こうして死刑を嘆願するという行為については、あまり良い印象はない。
事件は酷いもので、何の関係もない女性が連れ去られて殺された。事件の量刑を僕が判断できる立場にあれば、これは「死刑」であっても仕方ないものであると思う。だけど、僕は事件とは無関係の他人だ。無関係の他人が、ある事件について司法の判断を受け入れるのと、積極的に司法の判断に影響を与えようとするのは、恐ろしいほどの差があるように思える。ローマの闘技場では敗者を生かすも殺すも観客の親指一つで決まった。死刑嘆願書に名前を書くというのは、それと同じだ。
「死刑」は国家が人を殺す「罪」を国民が等しく分かち合う方法だ。僕はそういう罪を積極的に背負いたいとは思わないし、死刑を嘆願するということは、嘆願しない人間よりも余分に罪を背負うことに他ならない。でも、署名形式の嘆願書というのは、どうにも「名前を貸す」気分で重大な決定を下しているようで、そこが僕には受け容れがたかった。モラルや倫理を重視し、罪には相応しい罰が必要だと思う人々が、モラルや倫理を傷つけているようにしか思えない。
死刑判決を下す裁判官は「死刑」の重みに苦しむというし、陪審員制度の下で「死刑」の直接判断をする人々も同じだろう。でも、裁くことを後押ししようとしている人々は、苦悩した末に「死刑」を嘆願するわけではない。ただ単に、許せないから「死刑」。それでいいのだろうか?
僕には「死刑嘆願書」に署名をしないだけの周囲を納得させる理由がなかった。だから署名をしたが、まったく馬鹿なことをしたと思う。考えすぎだとか、犯人は死刑になって当然だとか、そういうのは分かっているけれども。