日曜日(文永の役とか)

奮戦する竹崎季長

ああ、僕にパイツァダスト(負けて死ね)が使えれば……当然、1ヶ月前まで時間を吹っ飛ばすわけなのでした。
俗・さよなら絶望先生』が面白かった。

うああああああ、書いているものを消してしもうた! 気を取り直して、再度書きます。

    • 概要

文永の役(wikiより)
元軍は10月19日には博多湾に現れ、湾西端の今津に停泊し一部兵力を上陸させた。10月20日太陽暦では11月25日)、船団は東に進み百道浜つづいて地行浜、長浜、那ノ津、須崎浜(博多)、東浜、箱崎浜に上陸した。

日本の武士は、当初は名乗りをあげての一騎打ちや、少人数での先駆けを試みたため一方的に損害を受けたが、昼頃には集団戦術に対応、また増援の到着により反撃に転じた。『八幡大菩薩愚童訓』によると、百道浜より3キロ東の赤坂にて菊池武房らの軍勢230名ほどの騎馬が徒歩の部隊だった2千前後の元軍を撃破した。『竹崎季長絵詞』によると竹崎季長が鳥飼潟から祖原へ追撃、上陸地点より500メートル付近まで押し返した。さらに後続を待たず先駆けを試み窮地に陥ったところ白石通泰らが救援に駆けつけ矢戦となった。

博多では海岸付近で激しい矢戦となり、日本軍は敗走したが殿軍の少弐景資が追撃してきた劉復亨を射倒すなどして、内陸への侵入を阻止した。『高麗史』によると、やがて日暮となり戦闘を解し、日本軍は大宰府に帰った。

一方、元軍は博多を占拠したものの終日の激戦で矢が尽き、軍の編成が崩れた。このため、大宰府攻略をあきらめ、博多の市街に火をかけて焼き払い、撤退することにした。

元寇の前半戦である「文永の役」については、モンゴル軍の集団戦法に大苦戦の鎌倉武士団という図式が今でも残っている。それは『蒙古襲来絵詞』にある、てっぽうと毒矢に苦戦する鎌倉武士の絵や、モンゴル軍が集団戦で戦ったのに対して鎌倉武士団は一騎打ち戦法で戦ったなどの説があるからだが、本当にそうなのだろうかということを考える必要があると思う。かつては「神風によって撃退された」という天候説や、「モンゴル軍に日本征服の野望はなかった」という軍事示威行動説などがあるけれども、最近では「鎌倉武士団がモンゴル軍をぼこぼこにした」という鎌倉武士最強説が取りざたされている。事実、鎌倉武士が最強だったかについては異論があるだろうけれども、文永の役はモンゴル軍の完敗だったという説は、おそらく正しいのではないかと思う。

博多湾に上陸したモンゴル軍を、鎌倉武士が一人先駆けして「やあやあ我こそは……」と名乗りをあげていると、いきなり毒矢を射られて針鼠になってしまった、という文永の役における武士のイメージはどこからきたものだろうか? その元を辿ると、必ずでてくる書物が『八幡愚童訓』だ。

『日本ノ戦ノ如ク、相互二名乗リ合テ、高名不覚ハ一人宛ノ勝負ト思フ処、此合戦ハ大勢一度ニ寄合テ、足手ノ働ク処ニ我モ我モト取リ付テ押殺シ、虜リケリ。是故懸ケ入ル程ノ日本人漏レル者コソ無リケリ』

ここに書かれているのは、鎌倉武士が日本の戦いのように、名乗りをあげて一騎打ちをしようとしたところ、モンゴル軍が大勢で攻め寄せたという内容だ。しかし、『八幡愚童訓』は史料批判をするまでもなく、信頼に足らない書物である。この書物の成立課程が、そもそも八幡神の霊験がモンゴル軍を打ち負かしたというスタンスで書かれているため、武士の働きを一層低く見せているというのは、ほぼ定説になってきている(ちなみに『八幡愚童訓』では青龍が現れてモンゴル軍を追い払ったことになっている)。さらに異本『八幡ノ蒙古記』には問題の箇所がモンゴル軍に対して名乗りをあげたのではなく、味方に対して名乗りをあげたという内容になっている。

鎌倉武士がモンゴル軍を相手に苦戦している様子をもっとも端的に表しているのは、『蒙古襲来絵詞』の有名なてっぽうと毒矢の場面であるが、これは江戸時代に三人のモンゴル兵が書き加えられたと九州大学の佐藤鉄太教授が指摘している(『蒙古襲来絵詞竹崎季長』)。それを除外すると、モンゴル軍と鎌倉武士団の戦闘は、両者ともに集団戦闘を行い、しかもモンゴル軍を蹴散らしている描写がほとんどである。そもそも武士は武士以外の者とは一騎打ちはしない(自慢できないから)。また、鎌倉武士が一騎打ち戦法しか知らなかったというのも嘘であり、古くは源平合戦でも奇襲乱戦は普通に行われていた。
また、『蒙古襲来絵詞』には、

『季長以下三騎痛手負ひ、馬射られて跳ねしところに、肥後国御家人白石六郎通泰後陣より大勢にて駆けしに、蒙古の軍引き退きて麁原に上がる。馬も射られずして、夷狄の中に駆け入り、通泰通かざりせば、死ぬべかりし身なり。思いの外に存命して、互ひに証人に立つ。筑後国御家人光友又二郎、首の骨射通さる。同じく証人に立つ。』

とあり、先駆けとして独走したことで危機に陥った竹崎季長を、白川六郎が集団で救援に駆けつけている場面がある。少人数で切り込む「先駆け」は鎌倉武士にとって恩賞にありつくための一番のアピールだったので、文永の役でも盛んに行われたと思われる。しかし、これと一騎打ち戦法は別と考えなければならないし、『蒙古襲来絵詞』お見る限りでは一騎打ちを武士が仕掛けたという描写はない。

    • 鎌倉武士の装備

鎌倉武士は当時の戦い方から兵科で分類するなら「重装弓騎兵」とでも言うべき存在だった。基本戦法は騎射で、この技術は相当なものだったと思われる「騎射三物」の一つに犬追物があることを考えれば、集団での騎射戦の技術も備えていただろうと推測される。弓の性能については、モンゴル軍の使う弓のほうが射程が長かったという説があるものの、実際に射殺すには100mくらいが適当なので、弓の差はあまり関係ない。さらに言うなら、武士が扱う和弓も射程は長く、熟練者が使っているため威力も高かった(劉復亨も射殺されている)。戦闘は矢戦が中心で、これはモンゴル軍も鎌倉武士も双方が手慣れていた。鎌倉武士の場合、矢戦用の防具である大鎧を身に付いていたので、100騎単位での遊撃戦法においてはかなり優位に戦った。菊池次郎武房が赤坂でモンゴル軍を蹴散らしたのも、そうした重装弓騎兵の騎射にモンゴル軍が対応できなかったからと思われる。

    • 勝敗

モンゴル軍の勝利条件が太宰府の陥落、鎌倉武士団の勝利条件がモンゴル軍の撤退であるとすると、目的を達成したのは鎌倉武士団のほうなので鎌倉武士団の勝ちということになる。というか、モンゴル軍を勝ちとする理由があまりない。博多が炎上したというのは、モンゴル軍の上陸地点だったので仕方ないところがあるし、そもそも過程をもって結果を論じるのはどうかと思う。モンゴル軍が鎌倉武士団を圧倒したなら、太宰府に攻め寄せなかった理由が分からないし、撤退した理由も分からない。一応、元史によると「弓矢が尽きたため」とされているが、実態は意外に手強い鎌倉武士の抵抗に、このまま戦争を続けてもジリ貧になるから退却したのだと思う。