思考(ウルトラリベラルとしての小泉純一郎)

(日本のことに詳しくない)外国人に日本のことを聞けば、かなりの人が「スシ・ゲイシャ・サムライ・ニンジャ」と答えると思うけれども、日本人だって日本に対する固定されたイメージに縛られている。固定されたイメージは、アイデアの枯渇の原因になる。固定されたイメージは誰もが共有するものだから、皆によって出涸らしも出ないほどに消費されているからだ。そういうわけで、国家とか社会、それに文化を含めたこれからの日本を考える上では、「日本的ではない日本」をより重視する必要がある。現代は常に、日本的ではない日本を模索する過程であり、それを視座に置いておかないと、世の動きがつかみづらくなると思う。
そういうわけで、『靖国参拝』について。

 「ポスト小泉」の最有力候補である安倍晋三官房長官が4月に靖国神社を参拝したことは、9月の総裁選を控え「8・15」参拝を回避する一方で、実績を作ることで党内の参拝支持勢力への配慮を示す狙いからとみられる。首相就任後の参拝継続を示唆した行動、との見方が広がることも予想されるだけに、「靖国問題」をめぐる自民党内の論議は改めて活発化しそうだ。(毎日新聞)

靖国参拝が是か非かという問題については、正直どうでもいいわけだが、小泉純一郎という人は横須賀出身のオペラとロックが好きな文化宰相で、そもそも皇室に対する畏敬の念を持つ素地がない。その小泉純一郎がなぜ靖国神社に参拝するのか。僕は昭和天皇のものとされるメモが出てきたことで、これは必ず八月十五日に参拝するだろうと思った。なぜなら、小泉純一郎は日本国の象徴を「天皇」から「靖国」に変えてしまおうと目論んでいると直感したからだ。つまり、天皇に残された「象徴」としての特権を一枚一枚はいでいくための行為が、靖国参拝ということになる。周辺諸国、左翼、右翼、政治家、マスコミが靖国で大騒ぎすれば、それだけ象徴としての「靖国」の地位は高まる。「靖国」の象徴としての機能を高めれば、相対的に皇室の「象徴性」は薄れ、政治家としては不都合なことは何もない。象徴を利用するなら、人よりも英霊のほうがどうとでもなる。
日本史上、天皇制が危機に陥ったのは、足利義満皇位簒奪計画と第二次世界大戦の敗戦の二つ。小泉純一郎が(織田信長よりも)足利義満に強いシンパシーを感じているのは、ブッシュ大統領金閣寺に招待したことからも明らかだし、東国出身の政治指導者は平将門以来、天皇家に弓を引く人が多い。小泉純一郎天皇家の戦いは、おそらく首相退任後から表面化すると僕は思う。政治家小泉純一郎が政界の頂点を極めた後、身を引き、一個人として動くときを注目したい。