『清洲会議』


清須会議 (幻冬舎文庫)

清須会議 (幻冬舎文庫)


新作三谷映画の『清洲会議』の原作小説。いろいろと評価を聞いてみると「小説版は抜群に面白かった」ということなので、文庫版のほうを購入。映画のほうは主要キャストと予告編は観ている程度の知識。歴史的な流れのほうが詳しいくらい。


織田信長の死後、跡目を巡る羽柴秀吉柴田勝家の主導権争いを描いた小説。特徴は、現代語訳で全編モノローグということ。作者の三谷幸喜は、小説家でも脚本家でもなく、劇作家なのだなぁと強く感じるつくりになっていた。なるほど、この作品を舞台でやれば、読んだだけで面白いイメージが思い浮かぶ。一方、この小説をもとに映画を作るのは、かなり難しいだろうなぁと感じた。


舞台演劇は内面の独白を大声で言っても大丈夫、という前提があって、その部分と小説の親和性はかなり良い。また、舞台という異空間では、現代語で歴史的な人物が喋っても許されるし、空間も歪められる(舞台の右と左にいる役者の会話が聞こえない、ということが許される)し、動物だって人が演じてもいい。表現として観客のリテラシーを前提としているので、当然、リアリティのラインが低いジャンルだと思う。リアリティのラインが低くても、役者の演技と筋書きが下手でない限り、面白さが損なわれない。


この小説の場合、全てが現代語訳でモノローグになっているのは、小説を舞台演劇のほうにリアリティのラインを寄せるための方策だと思う。演劇の筋書きを読むように小説を読むことができるし、それが成功しているのは三谷幸喜の文才があってのことだけれど、それ以上に舞台演劇と小説の相性の良さがある。この小説を読めば、誰だって「これを舞台演劇に置き換えたら?」という問題はイメージしやすいと思う。イノシシだって役者が演じればいいし、それも爆笑ポイントになる。でも、舞台演劇と映画は、実はあまり相性がよくないのかもしれない。映画はリアリティのラインを動かすのが非常に難しいジャンルだからだ。


特に、『清洲会議』の場合、全編モノローグという「主観」を重視したものになっていて、映画のようにどうしても「客観」を入れざるをえないジャンルとは、かなり相性が悪い。映画でも、一昔前のフランス映画みたいにモノローグをどんどん入れるという手法はとれるけれども、それで面白くなるのかというと、それも保証はできないし。で、天才劇作家の三谷幸喜は、どうやってこの難題をクリアするのかな〜と思ってたら、普通に時代劇にしていたので、原作小説を読んで面白いと思った人であればあるほどガッカリするような気がする。この原作小説は、おそらくは映画化(もしかしたら、舞台化までしか考えていなかったかもしれないけれど)ありきの作品だろうから。


というわけで、小説版はかなり面白かった。現代語訳の話運びは、劇作家の三谷幸喜の真骨頂という感じ。ただ、二転三転するような会話劇の面白さからは、この小説は縁遠いものだと思う。題名は『清洲会議』なんだけれど、会議で決めることってまったくないんだよね。それ以前の根回しを、秀吉の思惑どおりに追認していくような感じ。キャラクターの性格分担ができているだけに、もっと先の読めないドタバタ感があってもよかったのでは? 三谷幸喜のコメディードラマってそういうところが期待されているのだろうし。


ノローグで物語が進むので、歴史の勝者である羽柴秀吉にも迷いや手違いがあったことが分かるし、敗者である柴田勝家にも愚かさを含めてシンパシーを感じることができる。さらに、両者の間で右往左往する人々にも、血が通った人間としての滑稽さが引き立っている。特に、織田信雄のどうしようもなさは、モノローグだからこそ納得できる部分があると思う。これが客観的な映像で観る場合は、よほどの芸達者でなければ「人間、そこまでアホじゃないだろ」と考えてしまうはずだから。


ストーリーは、『清洲会議』の清洲会議が終わったところで、テンションが落ちてしまうのが残念だった。これは仕方がないことなのだけれど、もう少し勝者と敗者が紙一重だった感じを出してもよかったのではないか。羽柴秀吉柴田勝家とでは、役者が違うという現代的なイメージそのままになっている。柴田勝家の直情的な性格が、直情的だからこそ秀吉をあわやというところまで追い詰める、そういう描写が欲しかったところ。前半の世論を味方につけようとする秀吉の行為が、その後の展開になにも影響しないのもどうかと思った。